Monthly Archives: June 2011

四倉の大地

[English]

Fukushima は今や、世界の公用語になった。

炊き出し隊に同行して、福島県いわき市四倉町を訪れたのが、
震災から二ヶ月後の5月15日。
海岸沿いの住宅地には、まだ津波の爪痕が残っていた。

津波で倒壊した家屋1 津波で倒壊した家屋2 津波で倒壊した家屋3

田畑は海水に侵され、今も放射能が堆積し続けている。
当時、いわき市の避難所は、統廃合が進められていた。
しかし、工業高校の某避難所には、50名近くの方々が、まだ避難中で、
今後の見通しも、立たない様子であった。
現在。福島県でも、仮設住宅の建設・入居が行われているが、
未だ、終息の片鱗も見せない原発事故の被害を前に、
彼らは、何を拠り所に、希望を見出せば良いのだろうか。

四倉高校避難所のグランドでは、高校球児たちが、
大きな声を出して、練習に励んでいた。
そのグランドの内野は、土が入れ替えられている。

土が入れ替えられた、野球グランド。 練習を終えた高校球児たち 鯉幟

Fukushima は、放射能汚染による現在進行形の被災地である。
この地を、希望の光が照らしたとき、
日本の、真の復興は始まるのではないだろうか。

四倉

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野蒜で何が起こったか

[English]

東松島市、野蒜地域の指定避難所は、野蒜小学校だった。
しかし、避難所は海抜3から5メートルと低いため、
海抜12メートルある定林寺に、自主的に避難した方もいた。
小学校に逃げた、多くの方たちが亡くなったという。

野蒜小学校 SINCE 311



 


指定避難所で何が 東松島・野蒜小 証言で振り返る大津波(河北新報社)

東日本大震災の巨大津波は、自治体の指定避難所までのみ込んだ。「ここに逃げ込めば助かる」と疑いもしないまま犠牲になった人も少なくない。東松島市の野蒜小もその一つだった。あの時、何が起きていたのか。証言を基に再現する。
(藤田杏奴、野内貴史)

◎午後2時46分/徒歩や車で住民続々/ここは安全のはず

3月11日午後2時46分。放課後の野蒜小には5、6年生約60人が残っていた。激しい揺れで電気が消えた。揺れが続く。子どもたちはおびえきっていた。
直後から野蒜小には、子どもの安否を気遣う家族や近隣住民、高齢者施設の職員に付き添われたお年寄りらが、徒歩や車で続々集まってきた。
多くの人が体育館に誘導され、校庭や近くの亀岡公民館にとどまる人もいた。
住民たちの動きは素早かった。教職員と協力して避難車両を誘導し、校庭の一角に仮設トイレを組み立てようとする人もいた。亀岡公民館では、女性たちが中心になって炊き出しの準備を始めていた。

5センチの厚さに堆積した泥の上にピアノや演壇がひっくり返ったままの野蒜小体育館。並べた板とビニールシートに遺体が仮安置されていた=11日、東松島市

「すごい揺れだったなあ」「家の片付け、どうする?」。校庭ではそんな会話が交わされていた。
地元の消防団員斉藤剣一さん(53)は、野蒜小から離れた場所で大津波警報の発令を知らせる防災無線を聞き、車で野蒜小へ向かった。「野蒜小まで津波が来るとは考えていなかった」
野蒜小周辺は1960年のチリ地震津波でも被害がなかった。東松島市が2008年に東北大の監修で作った津波防災マップの浸水想定区域にも入っていない。

「津波が来ると分かっていれば、みんな逃げた。多くの人が『ここは安全』と思っていたはずだ」と斉藤さんは言う。
体育館の中。「大丈夫、落ち着きましょう」。野蒜小校長の木島美智子さん(54)はステージ近くに立ち、ハンドマイクで子どもたちや住民を励ましていた。
「先生、津波が来るって」。携帯電話を持った保護者が駆け寄ってきた。既に市との連絡手段は絶たれ、指示もなかった。「現場で判断するしかない」。木島さんがそう思ったとき、体育館の入り口付近でワゴン車が浮いている光景が目に飛び込んできた。
次の瞬間、体育館に水が流れ込んできた。

◎午後3時52分/泥流高さ3メートルに迫る/水、一気に背丈超す

「ステージに上がって、上がって!」。木島さんが呼び掛けている間にも、水かさは増していった。
複数の住民の証言によると、野蒜小に津波が到達したのは地震の66分後、午後3時52分ごろとみられる。
水は木島さんの膝まで来た後、一瞬の間を置いて一気に150センチの背丈を超えた。渦に巻き込まれた。以前教わった着衣泳を思い出し、力を抜いて浮かぼうと試みた。浮かんでいたマットにつかまり、2階のギャラリーにいた人に引き上げられた。
泥流は高さ3メートルのギャラリーの床ぎりぎりまで達していた。木島さんが震えながら下を見ると、水の中でもがいたり、浮き沈みする人たちの姿があった。
ギャラリーに逃れた人が、紅白幕をロープ代わりにして投げ込んだ。ステージ脇のカーテンにしがみつく人もいた。
斉藤さんは体育館の入り口付近にいた。「ゴゴゴゴゴ」という低い音とともに「津波だ」「逃げろ」という叫び声を聞いた。校庭に止まっていた数十台の車が、渦を巻いて流され始めた。自分に向かって来る車をよけようと、体育館に飛び込んだ。
とっさにバスケットゴールの鉄柱につかまった。母慶子さん(79)の手を握ったが、水かさが増すうちに離れ離れになった。
何回も水を飲んだ。鉄柱から流され、死を意識した時、伸ばした手の先がギャラリーの縁に触れ、助け上げられた。
慶子さんも別の人に救助されていた。
「寒くて、寒くて。震えが止まらず、しゃべれなかった」と斉藤さん。窓越しに降りしきる雪が見えた。ギャラリーには150人以上がすし詰めだった。
マットを浮かべ、一人でも多く助け上げようとしている男女がいた。
「野蒜小、ファイトー」。子どもたちが叫んでいた。

◎午後10時30分/ようやく水位が下がった/暗闇、呼び合う親子

体育館の中の水は、日が暮れても引かなかった。行方不明のわが子を捜そうと、必死に水をかき分けて体育館に入ってくる来る父親たちもいた。
子どもの名前を繰り返し呼ぶ親と、「お父さん」「パパー」と応じる声が、暗闇の中で交錯した。
「1人だけ、何回呼ばれても返事のない子がいた」。斉藤さんは鮮明に覚えている。
午後10時半ごろ、ようやく水位が下がったのを見計らって脱出作業が始まった。校庭には泥水がたまり、がれきや車が折り重なっていた。
消防団員や父親らが、板や畳で橋を造り、子どもとお年寄りを誘導した。全員が校舎に移動できたのは真夜中だった。

泥にまみれた児童用シューズ。津波で運ばれた防潮林の松葉が一面に散らばっていた=11日、東松島市の野蒜小体育館

この間、多くの人がぬれた服のままで待っていた。
割れた窓から吹き込む冷気とギャラリーの床が体温を奪っていった。お年寄りらが低体温症で次々と息を引き取った。
木島さんは「体育館の1階フロアで10人ぐらい、ギャラリーで8人ぐらいが亡くなったと思う」と証言する。
斉藤さんは振り返る。「校舎に移った後も、暖房もなく、そこで亡くなったお年寄りがいた。校庭にも遺体があった。現実と思えない光景だった」

◎その後/繰り返したどる「あの日」/校舎に逃げれば…

体育館は震災翌日の3月12日以降、付近一帯で見つかった犠牲者の仮安置所になった。13日には、100人以上の遺体が運び込まれた。
「最初から体育館を使わず、校舎に避難していればもっと多くの人が助かったのではないか」。犠牲者の遺族からは、そんな声が上がっている。
木島さんが当時、最も心配したのは、余震による校舎の倒壊だった。脳裏には2月のニュージーランド地震で崩れ落ちた建物の映像があった。
動揺する子どもたちを落ち着かせるのに必死だった。「冷静に外の様子を確認する余裕はなかった」と木島さんは語る。
震災から1カ月あまり。繰り返し繰り返し、あの日の行動をたどった。「あの時点でできる最善の判断だった」。同時に「津波に対する甘さがあった。校舎を避難場所にできればよかった」という思いも消えない。
「6メートルの津波が予想されます」(午後3時)「(石巻市)雄勝で9メートルの津波を観測しました」(午後3時47分)。東松島市の記録では、防災無線は切迫した状況を伝えたはずだが、午後3時ごろに野蒜小に到着した斉藤さんは「聞こえなかった」と言う。
住民の証言や目撃情報によると、津波に襲われた指定避難所は野蒜小のほか、鳴瀬川河口に近い新町コミュニティセンターなど市内に複数あるとみられる。
東松島市防災交通課は「避難所にまで津波が来たという情報はあるが、今は野蒜小を含め、避難所で亡くなった人の数や状況まで確認できる体制ではない」と話している。



©河北新報社


ちあきチャンの写真

[English]

Prologue
ちあきチャンにカメラを向けると、はにかんだ笑顔でピースした。
その微笑が、どこか印象的で、「種花」サイトの顔として、
使わせて頂いている。



桜が咲いたらね、学校に行くの。
「でも、まだ行かない……」

ちあきチャンと最初にかわした言葉だ。
4月24日。宮城にも、桜の満開が近づこうとしていた頃の話である。

桜宮城県東松島市野蒜町。
この町の指定避難所は野蒜小学校だった。
しかし、学校は海抜3から5メートルと低いため、
津波の被害に遭った。
避難した、多くの住民が亡くなったという。

小学校は現在、自衛隊の前線基地として使われている。



ちあきチャンは、いつも独りで遊んでいるという。
避難所となっている、寺の裏山を駆け上がる遊びや、
地震でひび割れたアスファルトを剥がして、
蟻ン子を探す遊びなどを、教えてくれた。

カメラを持った、ちあきチャン彼女が「カメラ貸して」といって、避難所に咲く「花」の撮影会が始まった。
花ごと散った牡丹を集めて、その内いちばんキレイな二つを撮った。こぼれた薔薇の花弁も、桜の木も、鉢植えの花まで何でも撮った。

ちあきチャンが撮った、椿 ちゃきチャンが撮った、薔薇の花弁 ちあきチャンが撮った、薔薇の木



ちあきチャンと靴ひとしきり撮り終えると、避難所の玄関に案内してくれた。
「津波が来てね、これで逃げたの」
ちあきチャンは、踵が履き潰された靴を指していった。彼女には、少し大き過ぎる靴。
事もなげに言っていたが、さぞや怖かったに違いない。

それから5足、自分の靴を教えてくれた。
全て、頂きものだという。
それでも、エナメル地の黒い靴はお気に入りで、
その靴に履き替えて、自慢気に見せてくれた。

ちあきチャンは、もう学校に通っているだろうか。
先日、避難所から届いた写真の中に、
お出かけする、彼女の姿があった。

お出かけする、ちあきチャン

次に会える時は、学校の友だちの話を、
たくさん聞かせてくれるかも知れない。

野蒜