Monthly Archives: September 2011

仙石線

News 仙石線

野蒜駅からもっとも近い野蒜海岸、ファミリーで楽しめる、蛤浜、水のきれいな月浜、
大浜、室浜と東松島市には5つの海水浴場があります。

野蒜海岸

Click! 野蒜海水浴場

これは、東松島市観光物産協会のHPにある、海水浴場の紹介文である。
松島は日本三景のひとつであるだけでなく、
宮城県有数のレクリエーション・スポットでもあった。
特に、野蒜海岸は波のうねりも高く、絶好のサーフスポットだったという。

野蒜海水浴場

Click! 東松島タウンガイド

しかし、野蒜海岸の最寄り駅である野蒜駅は、津波で甚大な被害を受けた。[野蒜駅
野蒜駅を通るJR仙石線は仙台と石巻を結ぶ、地元住民の大切な“足”だった。
その“足”が、完全に奪われてしまった。
津波被害を受けて、L字型に脱線した車両をニュースで目にした方も多いだろう。

 
震災の瞬間、列車は“東名-野蒜”付近を運行していた。
万一、列車が止まって踏み切りを遮っていたら、海側に居た人たちは、
逃げる術を、完全に失っていただろう。
更に、多くの被害者を出していたに違いない。

仙石線路線図

2011年9月28日現在、未だ“東名-野蒜”間は不通となっており、
その区間は、振替バスが運行している。
震災後、津波被害に遭った野蒜駅は、更に山側へ300メートル移設される、
計画で調整が進んでいる。

・河北新報[仙石線・東名―野蒜間、内陸移設 JRと沿線自治体が調整

野蒜駅から津波到達地点まで、直線距離で約400メートル
300メートルで、安全が確保できるか、疑問が残るところだ。
しかし、更に安全な山側に駅を作る場合、山を切り開く大工事となる。
問題は、それだけではない。

野蒜駅周辺地図
Click で拡大

仙石線は、陸前山下駅 – 石巻港駅間で日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物支線も持つ。
無論、貨物線も多大な被害を受けた。

このビデオは、石巻製紙工場付近の映像だが、
コンテナや駅が壊滅している様子が判る。[復興の兆候

 
地域経済の復興を考えれば、早急な路線の復旧が求められる。
仙石線は、地域の“足”であるダケでなく、
被災地経済の、重要な生命線となっているのだ。

・朝日新聞[日本の経済支えるローカル貨物 傷だらけの復興

被災地の工場が次々と復旧し、稼働を始めている。
作られた製品を運ぶには、路線の開通が不可欠である。
仙石線の、いち早い復旧が望まれている。


震災当時のニュース映像


SLIDESHOW
SLIDESHOW

野蒜小学校

野蒜小学校
種花Map拡大表示

現地に赴くと、必ずと言って良いほど、野蒜小学校が話題に上がる。
ここで起こった悲劇は、人災だった。被害は防げたと語る人もいる。

9月4日、荒廃した野蒜駅には、未だ野蒜小学校を避難場所に指示する、
津波避難サインが掲げられたままとなっていた。

小学校で起こった悲劇は既に以前、記事にしている。[野蒜で何が起こったか

駅改札 津波避難サイン

避難場所に指定された、野蒜小学校の体育館に避難した方々は、
津波に襲われ、30名近くの人が亡くなった。
泥水が館内に流れ込み、渦を巻いて人々を呑み込んでいったという。

運良く、校舎に避難した者たちも、津波被害や低体温症で命を落とした。
校舎の三階への通路は、施錠されていたという噂もある。
三階に避難していたら、難を逃れた者もいたかも知れない。

また、野蒜小学校が危険と気付き、車で別場所に移動しようとした者も、
混乱を避けるために取られた、通行止め措置で足止めされ、
車内で津波に遭った人がいるという噂もある。

遺族の心情を思えば、居た堪れないが、
この未曾有の大災害において、行政や個人の責任について、
言及することは、しない。
しかし、野蒜小学校の手元の写真と、新聞記事を時系列に並べ、
ひとつの、記録としたい。


3月12日
野蒜小学校

震災翌日 野蒜小学校 3月12日 9:46

野蒜小学校0312 野蒜小学校0312 野蒜小学校0312
・河北新報[仙台の避難所「寒い」一睡もできず、2000人体育館で一夜](宮城)
 [ニュース一覧][写真一覧


3月14日
野蒜小学校0314 野蒜小学校0314
・産経新聞[津波が避難所を襲った 「200人以上遺体」の宮城・東松島
・河北新報[手掛かりひたすら求め 仙台・荒浜 七ヶ浜 東松島](宮城)
 [ニュース一覧][写真一覧


3月19日
野蒜小学校0319 野蒜小学校0319
・河北新聞[住み慣れた家無残 あふれる土砂 言葉失う 東松島・野蒜](宮城)
 [ニュース一覧][写真一覧


3月21日
野蒜小学校0321 野蒜小学校0321
・河北新報[「いた!見つかった!」 家族、あふれる涙 9日ぶり救出
 [ニュース一覧][写真一覧


4月11日
野蒜小学校0411
・河北新報[仮設建設「最大ピッチで」 菅首相、石巻を初視察
 [ニュース一覧][写真一覧


4月24日
野蒜小学校0424
・河北新聞[宮城山元漁協「早く海へ出たい」 埼玉の会社が小型船提供
 [ニュース一覧][写真一覧


4月26日
桜
・産経新聞[楽しい時間で心のケア 東松島市の野蒜小で花見
 [ニュース一覧][写真一覧


SLIDESHOW
SLIDESHOW

野蒜小学校の変遷 3.12 to 4.24


9月4日現在、野蒜小学校の校庭には砂利が敷き詰められ、
ボランティアの活動拠点となっている。

野蒜小学校 9/4

気仙沼魚市場の再開

去る6月23日、気仙沼魚市場が再開した。
かつて、気仙沼港は生カツオの水揚げ全国一を誇っていた。
宮城県や気仙沼市、漁業協組は、例年6月中旬に始まるカツオの水揚げを目標に、
地盤沈下した岸壁整備や水揚げ設備の復旧を進めてきたという。

気仙沼の被害は甚大だった。
地震、津波被害のみならず、
広範囲での火災がメディアで大きく報道された。
深夜、燃え広がる火災映像は、まるで地獄絵図のようであった。

 
だが、被害は、それだけでは無かった。
国土地理院の調査の結果、この地殻変動により76cm の、
著しい地盤沈下があると判った。
地殻変動が、気仙沼湾海底を最大10m 削ったとする調査結果も発表されている。

気仙沼の主産業は漁業。
特にカツオ、マグロ、サンマ漁が盛んである。[気仙沼の漁種
しかし、漁港が壊滅的な被害を受け、復旧は前途多難と思われた。
それから、三ヶ月。関係各所のたゆまぬ努力で、
6月18日、漁協が魚市場の再開を発表する。

・産経新聞[気仙沼の魚市場は23日再開

幸い、カツオの漁場は、6月中旬の時点で、
房総半島の南南東約350キロの八丈島付近にあり、北上は遅れ気味だった。
魚市場の再開は、まさに希望の光であっただろう。
カツオ漁の復旧に賭ける、地元住民たちの様子が記事に残っている。

・産経新聞[明日へ(上)][明日へ(中)

魚市場再開は、決して順風満帆ではなかった。
冷蔵、冷凍、加工などの施設がほとんど失われているため、
加工用になる冷凍カツオについては、水揚げを見合わせ、生カツオのみを扱った。
その取扱量も当面、50トンまで。徐々に増やして300トンにすることを目指した。

写真は、7月18日。漁再開から三週間後に撮影された、市場の様子である。

気仙沼魚市場再開 SLIDESHOW

写真には、漁業の本格再開に向けて助走する、
躍動感あふれる人々が、写されている。

しかし、カツオの水揚高は例年の6分の1と、まだ少なく、
本格再開には、時間がかかりそうだ。

気仙沼市魚市場統計資料
平成23年水揚高

出典:気仙沼漁業協同組合

 
現在、気仙沼では、サンマ漁が始まっている。
9月18日 『目黒サンマ祭り』では、気仙沼から「復興サンマ」5,000匹が届けられ、
復興の狼煙(のろし)を、上げた。


 
・東京新聞[目黒のさんま祭 気仙沼市民が振る舞う

気仙沼は、漁業の本格再開に向けて、
着実に、歩み始めている。

復興の兆候

日本製紙は本日16日、石巻工場で、
一部操業を再開したと発表した。
・時事通信社[石巻工場、半年ぶり再開=日本製紙
・日本製紙HP[石巻工場で8号抄紙機の運転を再開

この映像は、2011年3月26日に撮影されたモノである。
石巻工場が、見るも無残に崩壊している様子が判る。

日本製紙:石巻工場

業界大手 日本製紙グループは、
東北に三つの主要工場を持ち(宮城2・福島1)、震災被害は甚大であった。
特に、石巻工場の崩壊は、地元のみならず、出版業界全体にも影響を及ぼした。

石巻工場の操業再開は、復興の意味でも非常に大きい。
日本製紙は、工場の自家発電設備をフル稼働させ、
東京電力・東北電力に、電力を供給していた他、
石巻工場においては、広域石巻圏(石巻市、東松島市、女川市)の、
震災瓦礫をボイラーで焼却し、その火力で発電された電気は、
東北電力に送電されている。
最大4万キロワット(一般家庭約10万世帯相当)
の供給を、目標としているという。

将に、石巻工場は、地元復興のシンボル的存在なのだ。
操業が本格化すれば、雇用増加の一助にもなるであろう。

日本製紙 石巻工場
詳細地図 Google Map Click!

日本製紙が発表した、石巻工場復旧のプレスリリースがある。
・[日本製紙 石巻工場の復旧について
有言実行。発表通りに工場を復旧させた。
同時期、東京電力も原発復旧のプレスリリースを発表している。
・[「福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋」の進捗状況について

東電の発表が工程通りに進めば、
日本の未来は、更に明るく照らされるに違いない。

孤独死問題と向き合う

News 仮設住宅

正しい餃子の作り方

◇切る
ネギ ニラ 生姜
※ネギ、ニラ、生姜 etc.

◇練る
練る
※水に少量の塩を入れるとモチモチ感が増す。

◇こねる/寝かす
こねる 寝かす

◇また、こねる
また、こねる また、また、こねる

◇茹でる/切る
茹でる 切る 切る

◇味付けする
味付けする
※中国秘伝の粉末、紹興酒 etc.

◇混ぜる
混ぜる 混ぜる 混ぜる

◇伸ばす/包む
※麺棒で縁を薄く、中を厚く皮を伸ばす

◇タレを作る
※大蒜、辣油、醬油、甜麺醤・サーチャー醤、香酢

◇準備する
準備する

◇1000個の水餃子を作って、来客を待つ
上北谷地仮設住宅 入り口 仮設住宅敷地内

◇釣りたての黒鯛が届いたりする
黒鯛 頂く お作り
※仮設入居者から、ご寄付を頂きました

◇皆で食べる、皆で呑む
秋刀魚
※追加で、捕れたて秋刀魚を頂きました

◆結果

結束が強まる。

現に、上北谷地の仮設住宅は、
未だ入居者の引越しが完了しておらず、空室も多い。
隣近所に、知り合いも居ない。
しかし、この日を境に、住民同士で自治会を作り、
代表、副代表が選出されたそうだ。

今後は炊き出しが、こうした交流支援の一助となる。

 


◆課題「孤独死問題」
仮設住宅での生活には、問題点や課題が山積している。
特に不安視されているのは、入居者の「孤独死」である。
・詳細[仮設住宅での生活
これは、阪神淡路大震災でも大きな課題として残った。
震災で家族を亡くした方々は、
賑やかな避難所から離れ、住宅に移った時初めて、
喪失感に襲われ、自ら命を絶つことも少なくない。
アルコール依存症も、問題の一つだ。

洗面所

また、震災弱者と言われる、高齢者などは、
誰も気付かない侭、亡くなる場合も多い。
特に、車もなく足も不自由な方たちは、
食料を調達することすら出来ない事態に遭遇する。

しかし、仮設住宅の入居は抽選のため、
隣近所に知り合いは居ない。居ても判らないのが現状だ。

「雪を見ると、震災の日を思い出す」
そう、仰った方が居た。

台所 冷蔵庫/洗濯機
※洗濯機、冷蔵庫等は日赤から支給されたモノ

仮設には四畳半二部屋の内、
一室に冷暖房が備えられているが、
薄い壁のプレハブでは、暖を充分に取れない。
「電気毛布」支給の支援の動きもあるが、
凍えた「心」まで温めることが出来るだろうか。
被災地は、新たな課題を迎えている。

花

・河北新報[焦点/仮設住宅と自立(上)線引き/仕組みと実態、ミスマッチ
・河北新報[焦点/仮設住宅と自立(中)戸惑い/「優先枠、回ってこない」
・河北新報[焦点/仮設住宅と自立(下)孤立/「災害弱者」どう目配り

津波の爪痕

Google Map
詳細地図 Google Map Click!

光司の部屋は、ここにあった。
今は、草が生い茂っている。

光司の部屋

津波で堤防が決壊し、今もその侭となっている、この地域では、
潮が満ちてくると、唯一残った家の基礎さえも海水に呑まれてしまう。

光司の家 海向 光司の家 山向 玄関

写真左は、光司の家から見た海側の写真、中央が山側、
右が玄関だった場所から覗いた景色である。
この写真は、9月4日に撮影された。
今も尚、周囲は瓦礫の山と化している。

周辺の景色1 周辺の景色2

光司が、この場を訪れたのは、被害を確認しに来た四月以来だという。
それでも、当時よりはマシになったと語っていた。

311 を振り返る

光司は数日前、ここから徒歩で15分の野蒜駅へ行き、
横浜にある調理師学校の、学校説明会に出掛けた。
自宅に戻ったのは、3月10日の夜だったという。

そして、3月11日午後2時46分。
M9.0の大地震が、東北地方を襲った。
その日、光司の家族は、一家でメロンパンを作るための、
準備をしていたという。
父の賢治さんは、車で食材の買い出しに出ていた。

激しい揺れが、家屋を軋ませる。
自室にいた光司は、咄嗟に外に飛び出て戸を開け、
家に居た母と姉の様子を伺った。
大きな横揺れ。震源は沖に違いない……。
津波が来る
光司は、そう思ったという。

激しい揺れがおさまると、光司たちは姉の車で、
父と決めた、避難場所へと向かった。

光司の機転は、素晴らしかった。
5分の判断が功を奏し、生きながらえたと言って、過言ではない。
山側へと向かう東名運河沿いの道路は、
その後、避難する車で大渋滞し、
身動きが取れない侭、車の中で津波に呑まれ、
亡くなった方々も、非常に多かった。

東名運河 04/24

東名運河 04/24

光司が向かった先は、定林寺だった。
市は野蒜小学校を、津波避難場所として指定していた。
しかし、小学校は海抜3メートルと低く、津波に耐えられられない。
父が事前に、「万一の場合は、避難させて下さい」と、
寺の住職に、お願いしていたのだ。

実際、野蒜小学校は津波の被害に遭い、
水死、凍死で数十名の人が亡くなる結果となった。
野蒜で何が起こったか

野蒜小学校 3/14 野蒜小学校 9/4

写真左が、震災直後の3月14日に撮影された写真。
写真右が、9月4日に撮影された写真。
かつては、自衛隊の遺体捜索拠点かつ、
遺体確認場として使われ、
今は、ボランティア団体の活動拠点となっている。

野蒜小学校から定林寺まで、車で僅かの距離である。
しかし、そこに生死の境があった。
定林寺は後に、最大600人の被災者が身を寄せ、
正式な避難所となる。

携帯電話等の通信手段が完全に麻痺する中、
父と定林寺で再会出来たのは、翌日のことだった。
そして、家族との避難所生活が始まる。

光司が撮影した震災直後の写真

光司が撮影した震災直後の写真

Twitter コメント
3.12
 家崩壊なう なんも残らなかった家もない 友達も死んだ 何かオレ悪いことした?
3.15
 家がなくなった跡形もなく 飯をくれ 水をくれ 道を歩けば 死体死体死体
 笑えねえよ  宮城県東松島市野蒜の東名運河という川を撮影しました
 川の中に家がまるごと入ってたり船が道路の真ん中にいたり
 
3.17
 寒い 雪とかふざけてる 灯油とかガソリンとか早く来てほしい
3.25
 家がある人が羨ましい 18年間のものはすべてなくなった
 あるのはSDカードの写真データ数個だけ

定林寺避難所の様子

ビデオで、銀紙が貼られたコップは、
未だ交通機関が麻痺して、救援物資が少なかった頃、
一人に紙コップ1個しか行き渡らず、
銀紙で補強をしているたのだそうだ。

そして、4月。光司は横浜で新生活を始める。

8.12
 今から親の元に帰省する。
 一年前の今日はこんな日が来るとは思わずにいた。
 「実家に帰省する」って言えないのがこんなに悔しいとは思わなかった。
 そして今日は震災で失った友達の墓を回っていこうと思う。

光司は、仮設住宅に帰省して、父の仕事を手伝った。
その間、彼に写真撮影を、お願いした。
しかし、近くまで行けど“実家”に足は向かなかったという。

明日で、震災半年を迎える。
光司の家族は、彼の咄嗟の判断と、事前の打ち合わせで、
九死に一生を得た。
日頃の備えが、如何に大切かを痛感させられる。

避難する人々

3月12日 9:46 野蒜

そして、季節は移ろう。秋が来て被災地は、また雪の季節を迎える。



野蒜 NOBIRU     SINCE 311 被災地の奇跡

避難所最後の日

[English]
2011年8月31日。
宮城県は最後の被災者が避難所を後にし、全ての施設が閉鎖された。

避難所を出る、千葉さん

鳴瀬住環センター(あいあい)避難所を出る、千葉さん(撮影:伊藤さん)

この方が、初めて炊き出しに伺った日、
一緒に周囲へ告知して回って下さった「千葉さん」である。[あいあい避難所
そして、今ではメル友となった「千葉くに子」さんが、こちら。(写真左)

千葉くに子さん 梢さん、西ヶ谷さん、伊藤さん

写真右、ピースをしているのが、避難所リーダーの奥様「伊藤信子さん」。
二度目に伺った際には、現地の段取りなど、色々とお世話になった。
そして、左から、梢さん、西ヶ谷さん。
皆、一つ屋根の下、家族のように避難所生活を、送っていらっしゃった。

西ヶ谷さんも、避難所最後の日に、施設を出られた。
NHKが取材しようと市内を回った際、既に皆出払っていて、
実質、最後に避難所を出た方になるらしい。

インタビューを受ける西ヶ谷さん

NHKのインタビューを受ける西ヶ谷さん(撮影:伊藤さん)

この避難所にいらした方々は、皆一様に明るい。
「避難所生活が長いと、ご苦労もあるでしょう」と、訊ねると、
「皆がいるから、楽しいわよ」と、笑顔で答えて下さる。
もちろん、その下に深い恐怖と悲哀があるのかも知れないが、
それを微塵にも感じさせない、強さがあった。

先日、伺った際には、
「今度は、戻り鰹の時期にいらっしゃい」と、仰って下さった。
まるで、第二の故郷が出来たようである。
家族のような繋がりで、今後も現地に、足を運びたい。

あいあい避難所

「種花」ALBUM

あいあいが取材を受けた新聞記事

あいあいが取材を受けた新聞記事

千葉くに子さんのお宅に咲いていた花は、
朝顔が空を見上げ、向日葵が種を実らせ、頭を垂れている。

朝顔 向日葵

夏の終わり、宮城県で全ての避難所が閉鎖となり、
被災地は、新たな一歩を踏み出すことになる。
震災半年。
お涙頂戴の感動ドラマは要らない。
明るく、逞しく、前を向いて歩く姿があれば良い。
誰もが、その背中に壮絶なドラマを、
背負っているのだから。

あいあい避難所

鳴瀬子育て支援センター(愛称:あいあい)を初めて訪れたのは、
2011年4月25日。
午前中の炊き出しが早めに終わり、夕方迄に急遽、
もう一軒回ろうと、炊き出し長が決めて、
受け入れ場所を探したのが切っ掛けだった。

炊き出しボランティアは、事前の申請が必要となる。
この時、あいあい避難所の皆さんは、
上層部に抗議してまで、我々を受け入れてくれた。

あいあいに身を寄せていた方々は、約50名。
鳴瀬地域は、津波の床上浸水被害が大きかった地域だ。
汚泥に浸かった一階から、同じ家屋の二階に避難されている方も多く、
その方たちを招待すべく、拡声器を持って、
避難所の千葉さんと一緒に、周囲一帯に声を掛けて回った。
自宅の二階で暮らす方々は、
避難所には仲間が居て、支援がある。
家族を亡くし、家に独りで居るのは「本当に辛い」。
と、仰っていたのを、強く記憶している。

あいあい避難所脇 清掃されたアスファルト 海水に浸かった畑

千葉さんは、お宅の前を通る度、「ちょっと待ってね」と断って、
焼香をされていた。
周囲の家だけでも、五軒は焼香に上がっただろうか。
この地域も、職場等に出掛けて、津波で亡くなった方も多い。
別の形で、被害の甚大さを実感させられた。

あいあい 炊き出し風景1 あいあい 炊き出し風景2 あいあい 炊き出し風景3

告知の甲斐あって、多くの方が避難所に集まって下さり、
炊き出しは大盛況のうちに終わった。
撤収作業後、避難所の皆さんは、我々に自分たちに支給された、
避難所の食事を振舞って下さった。
この弁当は毎夕、宅配業者のクール便で届く。
朝はパン、昼はインスタント食品を毎日、食べているとのことだった。

避難所内 避難所の弁当

これが御縁で、7月10日。
再び、あいあいに寄らせて頂いたが、
35度の猛暑の中、二件の炊き出しをしたタメ、
疲労困憊して、写真を撮影していない。
この時、避難所にお住まいの方は28名。
その日も、避難所の弁当をご馳走になった。

そして、9月4日。避難所が解散して改めて、
あいあいに寄らせて頂いた。事前に連絡を取らせて頂いた、
千葉くに子さん(この避難所には、先の千葉さんと二名いらっしゃった)
が、避難所で暮らされていた幾人かを呼んで下さり、
手巻き寿司を振舞って下さった。
全く、ご馳走になるばかりで本末転倒、恐縮至極だが、
大歓迎をして下さり、嬉しい限りである。

あいあいLadys

避難所は、敷き詰められていた畳が剥がされ、
幾つかの荷物が残るばかりとなっていた。

彼女たちの写真の笑顔は明るいが、中には震災直後、
津波で家が浸水し、二階の押し入れで二日間を過ごされた方もいる。
アイロン用の霧吹きで喉の渇きを潤し、
流れてきた、泥まみれのバナナで、飢えを凌いだという。
ご家族の遺体は、畳の下から見付かったそうだ。
今でも、この地域では毎週末、誰かの葬儀が行われている。

首都圏では、原発問題や経済不安が取り沙汰され、
津波被害の復興は一段落と思われているが、
避難所という心の拠り所を失くし、孤独死される方も多い。[仮設住宅の生活

今後も、こうした交流支援は不可欠なのが、現状である。

野蒜駅

News 仙石線][English

9月11日(日曜日)東日本大震災、六ヶ月を迎える。
野蒜駅は、東松島地域の、震災後半年を綴る上で、
象徴的な場所と言えるだろう。

野蒜駅

2011年3月11日 午後2時46分 東北地方太平洋沖地震 発生

マグニチュード9.0の地震が、日本を震撼させた。
家屋は倒壊し、周囲で停電が起こる。

2時47分に止まった時計

2:47で停止した時計(右上)

駅の入り口に掲げられた時計(写真右上)は、地震が発生した1分後の2時47分で停止している。
恐らく、時計が電気制御のため、停電や断線によって停止したモノと思われる。
その時、仙石線は野蒜-東名間を運行していた。列車は地震と、その後の津波によって脱線した。



午後4時頃、津波被害発生

地震による津波は、観測史上まれに見る速さで到達したといわれている。
その高さは、野蒜に最も近い鮎川験潮所で7.6メートル以上を観測しているが、
その後、験潮所が津波で破壊されたため、正確なデータは計測されていない。

駅構内の時計 駅員室 駅改札

津波被害は、甚大だった。
この震災で亡くなった方の約9割が、津波による水死と、推定されている。
この津波到達までの、僅かな時間が生死の明暗を分けた。

津波避難サイン

指定避難所とされている『野蒜小学校』で、この後に起こった悲劇は、
過去の記事で触れている。[野蒜で何が起こったか




トモダチ作戦

津波被害は、近くにある航空自衛隊松島基地を壊滅させた。
・河北新報[空自松島基地 機能回復せず

地元自衛隊が壊滅的な打撃を受ける中、日本全国の自衛隊が被災地に出動し、
被災者の救助や、避難所への炊き出し、
行方不明者の捜索や遺体の回収に当たった。
・AFP[【写真特集】震災被災地で活動する自衛隊員ら

その最中、4月5日より米軍によるトモダチ作戦が決行される。
仙石線も、4月21日より、在日米軍と自衛隊の共同作戦として決行された
「ソウルトレイン作戦(米軍名)」で、脱線した車両や、
被災した路線の復旧作業に当たった。
・読売新聞[日米共同、仙石線復旧へ「ソウルトレイン」作戦

7月16日までに、多くの区間が復旧開通したが、
野蒜駅の復旧は、未だ手付かずである。
不通区間は、バスが運行しているが、その本数は充分と言えない。

仙石線ホーム 線路 ホームの花

宮城県東松島市の避難所は、全て閉鎖され、
多くの被災者が、仮設住宅での生活を送っている。
車を失った方々においては、移動の手段すらないのが現状で、
コンビニ近くの仮設住宅に応募が殺到するなど、
「仮設格差」も、生まれ始めている。
今後、訪れる冬に向けて、被災地への、
「温もり」の支援が、必要とされている。

未来へ

帰りたい風景

News 松島湾][English

尾形さんが撮影した松島湾

宮城県東松島市ひびき工業団地仮設住宅に入居している、
漁師の尾形さんから、お渡ししていたカメラが届いた。
丁度、お盆の頃だったが、体調を崩されていて、
「郵送が遅くなってしまった」と、手紙が添えられていた。

写真は、一見すると美しい松島湾の風景に見える。
尾形さんから送られてきた写真のほとんどは、
海の写真だった。
無残に積み上げられた瓦礫の山ではなく、
穏やかな海。
そこに、尾形さんは何を見、感じたのだろうか。

種花ALBUM

松島湾は、かきの養殖で有名な地域である。[松島湾の復興
尾形さんは、かき養殖を生業としている。
かきは、ホタテの殻に稚貝をつけ、竿が立てられた養殖場で育てられる。
その養殖場一帯が、津波で全壊した。今年は全く漁が出来ないという。

その修復作業の写真を、前回うがった時に、拝借してきた。

流された記録

「帰りたい風景」それは、帰れない風景なのかも知れない。
しかし、海は刻一刻と姿を変え、育って行く。
来年、尾形さんが育てた、美味いかきが喰えるに違いない。