津波の爪痕

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光司の部屋は、ここにあった。
今は、草が生い茂っている。

光司の部屋

津波で堤防が決壊し、今もその侭となっている、この地域では、
潮が満ちてくると、唯一残った家の基礎さえも海水に呑まれてしまう。

光司の家 海向 光司の家 山向 玄関

写真左は、光司の家から見た海側の写真、中央が山側、
右が玄関だった場所から覗いた景色である。
この写真は、9月4日に撮影された。
今も尚、周囲は瓦礫の山と化している。

周辺の景色1 周辺の景色2

光司が、この場を訪れたのは、被害を確認しに来た四月以来だという。
それでも、当時よりはマシになったと語っていた。

311 を振り返る

光司は数日前、ここから徒歩で15分の野蒜駅へ行き、
横浜にある調理師学校の、学校説明会に出掛けた。
自宅に戻ったのは、3月10日の夜だったという。

そして、3月11日午後2時46分。
M9.0の大地震が、東北地方を襲った。
その日、光司の家族は、一家でメロンパンを作るための、
準備をしていたという。
父の賢治さんは、車で食材の買い出しに出ていた。

激しい揺れが、家屋を軋ませる。
自室にいた光司は、咄嗟に外に飛び出て戸を開け、
家に居た母と姉の様子を伺った。
大きな横揺れ。震源は沖に違いない……。
津波が来る
光司は、そう思ったという。

激しい揺れがおさまると、光司たちは姉の車で、
父と決めた、避難場所へと向かった。

光司の機転は、素晴らしかった。
5分の判断が功を奏し、生きながらえたと言って、過言ではない。
山側へと向かう東名運河沿いの道路は、
その後、避難する車で大渋滞し、
身動きが取れない侭、車の中で津波に呑まれ、
亡くなった方々も、非常に多かった。

東名運河 04/24

東名運河 04/24

光司が向かった先は、定林寺だった。
市は野蒜小学校を、津波避難場所として指定していた。
しかし、小学校は海抜3メートルと低く、津波に耐えられられない。
父が事前に、「万一の場合は、避難させて下さい」と、
寺の住職に、お願いしていたのだ。

実際、野蒜小学校は津波の被害に遭い、
水死、凍死で数十名の人が亡くなる結果となった。
野蒜で何が起こったか

野蒜小学校 3/14 野蒜小学校 9/4

写真左が、震災直後の3月14日に撮影された写真。
写真右が、9月4日に撮影された写真。
かつては、自衛隊の遺体捜索拠点かつ、
遺体確認場として使われ、
今は、ボランティア団体の活動拠点となっている。

野蒜小学校から定林寺まで、車で僅かの距離である。
しかし、そこに生死の境があった。
定林寺は後に、最大600人の被災者が身を寄せ、
正式な避難所となる。

携帯電話等の通信手段が完全に麻痺する中、
父と定林寺で再会出来たのは、翌日のことだった。
そして、家族との避難所生活が始まる。

光司が撮影した震災直後の写真

光司が撮影した震災直後の写真

Twitter コメント
3.12
 家崩壊なう なんも残らなかった家もない 友達も死んだ 何かオレ悪いことした?
3.15
 家がなくなった跡形もなく 飯をくれ 水をくれ 道を歩けば 死体死体死体
 笑えねえよ  宮城県東松島市野蒜の東名運河という川を撮影しました
 川の中に家がまるごと入ってたり船が道路の真ん中にいたり
 
3.17
 寒い 雪とかふざけてる 灯油とかガソリンとか早く来てほしい
3.25
 家がある人が羨ましい 18年間のものはすべてなくなった
 あるのはSDカードの写真データ数個だけ

定林寺避難所の様子

ビデオで、銀紙が貼られたコップは、
未だ交通機関が麻痺して、救援物資が少なかった頃、
一人に紙コップ1個しか行き渡らず、
銀紙で補強をしているたのだそうだ。

そして、4月。光司は横浜で新生活を始める。

8.12
 今から親の元に帰省する。
 一年前の今日はこんな日が来るとは思わずにいた。
 「実家に帰省する」って言えないのがこんなに悔しいとは思わなかった。
 そして今日は震災で失った友達の墓を回っていこうと思う。

光司は、仮設住宅に帰省して、父の仕事を手伝った。
その間、彼に写真撮影を、お願いした。
しかし、近くまで行けど“実家”に足は向かなかったという。

明日で、震災半年を迎える。
光司の家族は、彼の咄嗟の判断と、事前の打ち合わせで、
九死に一生を得た。
日頃の備えが、如何に大切かを痛感させられる。

避難する人々

3月12日 9:46 野蒜

そして、季節は移ろう。秋が来て被災地は、また雪の季節を迎える。



野蒜 NOBIRU     SINCE 311 被災地の奇跡

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