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東松島上空

自衛隊の協力のもと、東松島の現在の被災地状況や、
高台移転工事の進行状況などが判るよう、地域住民が案内された。
撮影は上北谷地仮設住宅にお住いの宮沢賢治さん。

登場風景1

登場風景2

上空2Kmの撮影。

被害の甚大だった野蒜地域
宮戸島と野蒜1

宮戸島と野蒜2
まだ、荒れ地が広がっている。

仮設住宅団地として使われている、響工業団地
響工業団地仮設住宅

市が避難所として指定した野蒜小学校が津波被害を受け、
急遽避難場所となった定林寺上空
野蒜定林寺付近1

大氾濫を起こした鳴瀬川と、その河口、大曲周辺
成瀬川2
大曲周辺2
未だに手がついていない。

新たに造成された施設も有る。

野蒜地区太陽発電システム
野蒜太陽光発電2

高台整地
野蒜高台整地
住民は、この整地が完成した後、仮設住宅から移転することになる。

まだまだ、先の見えない復興ではあるが、
少しずつ、道は開けている。

↓更に写真を見たい方はこちら
東松島上空2013.12.03

復興へ!

東日本大震災で亡くなった全ての方に
謹んで哀悼の意を表するとともに
ご冥福をお祈り申しあげます

ワカメ収穫

復興プロジェクト 東松島ワカメ

仙石線

News 仙石線

野蒜駅からもっとも近い野蒜海岸、ファミリーで楽しめる、蛤浜、水のきれいな月浜、
大浜、室浜と東松島市には5つの海水浴場があります。

野蒜海岸

Click! 野蒜海水浴場

これは、東松島市観光物産協会のHPにある、海水浴場の紹介文である。
松島は日本三景のひとつであるだけでなく、
宮城県有数のレクリエーション・スポットでもあった。
特に、野蒜海岸は波のうねりも高く、絶好のサーフスポットだったという。

野蒜海水浴場

Click! 東松島タウンガイド

しかし、野蒜海岸の最寄り駅である野蒜駅は、津波で甚大な被害を受けた。[野蒜駅
野蒜駅を通るJR仙石線は仙台と石巻を結ぶ、地元住民の大切な“足”だった。
その“足”が、完全に奪われてしまった。
津波被害を受けて、L字型に脱線した車両をニュースで目にした方も多いだろう。

 
震災の瞬間、列車は“東名-野蒜”付近を運行していた。
万一、列車が止まって踏み切りを遮っていたら、海側に居た人たちは、
逃げる術を、完全に失っていただろう。
更に、多くの被害者を出していたに違いない。

仙石線路線図

2011年9月28日現在、未だ“東名-野蒜”間は不通となっており、
その区間は、振替バスが運行している。
震災後、津波被害に遭った野蒜駅は、更に山側へ300メートル移設される、
計画で調整が進んでいる。

・河北新報[仙石線・東名―野蒜間、内陸移設 JRと沿線自治体が調整

野蒜駅から津波到達地点まで、直線距離で約400メートル
300メートルで、安全が確保できるか、疑問が残るところだ。
しかし、更に安全な山側に駅を作る場合、山を切り開く大工事となる。
問題は、それだけではない。

野蒜駅周辺地図
Click で拡大

仙石線は、陸前山下駅 – 石巻港駅間で日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物支線も持つ。
無論、貨物線も多大な被害を受けた。

このビデオは、石巻製紙工場付近の映像だが、
コンテナや駅が壊滅している様子が判る。[復興の兆候

 
地域経済の復興を考えれば、早急な路線の復旧が求められる。
仙石線は、地域の“足”であるダケでなく、
被災地経済の、重要な生命線となっているのだ。

・朝日新聞[日本の経済支えるローカル貨物 傷だらけの復興

被災地の工場が次々と復旧し、稼働を始めている。
作られた製品を運ぶには、路線の開通が不可欠である。
仙石線の、いち早い復旧が望まれている。


震災当時のニュース映像


SLIDESHOW
SLIDESHOW

復興の兆候

日本製紙は本日16日、石巻工場で、
一部操業を再開したと発表した。
・時事通信社[石巻工場、半年ぶり再開=日本製紙
・日本製紙HP[石巻工場で8号抄紙機の運転を再開

この映像は、2011年3月26日に撮影されたモノである。
石巻工場が、見るも無残に崩壊している様子が判る。

日本製紙:石巻工場

業界大手 日本製紙グループは、
東北に三つの主要工場を持ち(宮城2・福島1)、震災被害は甚大であった。
特に、石巻工場の崩壊は、地元のみならず、出版業界全体にも影響を及ぼした。

石巻工場の操業再開は、復興の意味でも非常に大きい。
日本製紙は、工場の自家発電設備をフル稼働させ、
東京電力・東北電力に、電力を供給していた他、
石巻工場においては、広域石巻圏(石巻市、東松島市、女川市)の、
震災瓦礫をボイラーで焼却し、その火力で発電された電気は、
東北電力に送電されている。
最大4万キロワット(一般家庭約10万世帯相当)
の供給を、目標としているという。

将に、石巻工場は、地元復興のシンボル的存在なのだ。
操業が本格化すれば、雇用増加の一助にもなるであろう。

日本製紙 石巻工場
詳細地図 Google Map Click!

日本製紙が発表した、石巻工場復旧のプレスリリースがある。
・[日本製紙 石巻工場の復旧について
有言実行。発表通りに工場を復旧させた。
同時期、東京電力も原発復旧のプレスリリースを発表している。
・[「福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋」の進捗状況について

東電の発表が工程通りに進めば、
日本の未来は、更に明るく照らされるに違いない。

津波の爪痕

Google Map
詳細地図 Google Map Click!

光司の部屋は、ここにあった。
今は、草が生い茂っている。

光司の部屋

津波で堤防が決壊し、今もその侭となっている、この地域では、
潮が満ちてくると、唯一残った家の基礎さえも海水に呑まれてしまう。

光司の家 海向 光司の家 山向 玄関

写真左は、光司の家から見た海側の写真、中央が山側、
右が玄関だった場所から覗いた景色である。
この写真は、9月4日に撮影された。
今も尚、周囲は瓦礫の山と化している。

周辺の景色1 周辺の景色2

光司が、この場を訪れたのは、被害を確認しに来た四月以来だという。
それでも、当時よりはマシになったと語っていた。

311 を振り返る

光司は数日前、ここから徒歩で15分の野蒜駅へ行き、
横浜にある調理師学校の、学校説明会に出掛けた。
自宅に戻ったのは、3月10日の夜だったという。

そして、3月11日午後2時46分。
M9.0の大地震が、東北地方を襲った。
その日、光司の家族は、一家でメロンパンを作るための、
準備をしていたという。
父の賢治さんは、車で食材の買い出しに出ていた。

激しい揺れが、家屋を軋ませる。
自室にいた光司は、咄嗟に外に飛び出て戸を開け、
家に居た母と姉の様子を伺った。
大きな横揺れ。震源は沖に違いない……。
津波が来る
光司は、そう思ったという。

激しい揺れがおさまると、光司たちは姉の車で、
父と決めた、避難場所へと向かった。

光司の機転は、素晴らしかった。
5分の判断が功を奏し、生きながらえたと言って、過言ではない。
山側へと向かう東名運河沿いの道路は、
その後、避難する車で大渋滞し、
身動きが取れない侭、車の中で津波に呑まれ、
亡くなった方々も、非常に多かった。

東名運河 04/24

東名運河 04/24

光司が向かった先は、定林寺だった。
市は野蒜小学校を、津波避難場所として指定していた。
しかし、小学校は海抜3メートルと低く、津波に耐えられられない。
父が事前に、「万一の場合は、避難させて下さい」と、
寺の住職に、お願いしていたのだ。

実際、野蒜小学校は津波の被害に遭い、
水死、凍死で数十名の人が亡くなる結果となった。
野蒜で何が起こったか

野蒜小学校 3/14 野蒜小学校 9/4

写真左が、震災直後の3月14日に撮影された写真。
写真右が、9月4日に撮影された写真。
かつては、自衛隊の遺体捜索拠点かつ、
遺体確認場として使われ、
今は、ボランティア団体の活動拠点となっている。

野蒜小学校から定林寺まで、車で僅かの距離である。
しかし、そこに生死の境があった。
定林寺は後に、最大600人の被災者が身を寄せ、
正式な避難所となる。

携帯電話等の通信手段が完全に麻痺する中、
父と定林寺で再会出来たのは、翌日のことだった。
そして、家族との避難所生活が始まる。

光司が撮影した震災直後の写真

光司が撮影した震災直後の写真

Twitter コメント
3.12
 家崩壊なう なんも残らなかった家もない 友達も死んだ 何かオレ悪いことした?
3.15
 家がなくなった跡形もなく 飯をくれ 水をくれ 道を歩けば 死体死体死体
 笑えねえよ  宮城県東松島市野蒜の東名運河という川を撮影しました
 川の中に家がまるごと入ってたり船が道路の真ん中にいたり
 
3.17
 寒い 雪とかふざけてる 灯油とかガソリンとか早く来てほしい
3.25
 家がある人が羨ましい 18年間のものはすべてなくなった
 あるのはSDカードの写真データ数個だけ

定林寺避難所の様子

ビデオで、銀紙が貼られたコップは、
未だ交通機関が麻痺して、救援物資が少なかった頃、
一人に紙コップ1個しか行き渡らず、
銀紙で補強をしているたのだそうだ。

そして、4月。光司は横浜で新生活を始める。

8.12
 今から親の元に帰省する。
 一年前の今日はこんな日が来るとは思わずにいた。
 「実家に帰省する」って言えないのがこんなに悔しいとは思わなかった。
 そして今日は震災で失った友達の墓を回っていこうと思う。

光司は、仮設住宅に帰省して、父の仕事を手伝った。
その間、彼に写真撮影を、お願いした。
しかし、近くまで行けど“実家”に足は向かなかったという。

明日で、震災半年を迎える。
光司の家族は、彼の咄嗟の判断と、事前の打ち合わせで、
九死に一生を得た。
日頃の備えが、如何に大切かを痛感させられる。

避難する人々

3月12日 9:46 野蒜

そして、季節は移ろう。秋が来て被災地は、また雪の季節を迎える。



野蒜 NOBIRU     SINCE 311 被災地の奇跡